横井つせ子は、1831(天保2)年、矢嶋家の五女として生まれました。26歳の時、思想家である横井小楠と結婚。横井家は150
石取りの士族でしたが、藩の財政難の影響もあり生活は苦しいものでした。しかし、つせ子は家計を切り盛りし小楠を支えました。1858(安政5)年、小楠は才能を買われ、越前藩の政治顧問に
招聘されます。つせ子は「夫は天下人である。妻たる自分もできるだけ学問をして夫の名を辱めることがないように」と学問に励みました。これに対し小楠もその献身ぶりに「おつせは君子だ」と賛美しました。
徳川幕府が終わり、小楠は明治政府に参画しましたが、志半ばにして暗殺されます。つせ子は39歳で未亡人となったものの、政府からの慰労金を教育費につぎ込み、2人の子どもたちを日本初の男女共学として熊本洋学校で学ばせました。その甲斐あって、長男・
時雄は同志社大学第3代総長に、長女・みや子は同志社女学校設立に貢献し、同志社大学第8代総長・海老名
弾正の妻となるなど教育の現場で活躍しました。
つせ子が46歳の時、横井家は西南戦争で全焼。住まいを時雄がいる今治(愛媛県)に移すなど点々としますが、体調を崩し姉妹のいる東京に引っ越します。病から回復したつせ子は妹・矢嶋
楫子の女性教育や婦人解放運動を積極的に支えました。最期は神戸にいるみや子と同居し、娘や孫に見守られ64歳で永眠しました。つせ子のことを甥である文豪・徳冨
盧花は、「叔母は社会的な功績はないけれど家庭を守り、己のことは忘れて人のために尽くし、献身と奉仕の生涯を過ごした」と語っています。
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