明治から大正にかけて女性の地位向上に尽くし、
「四賢婦人」と呼ばれた益城町出身の矢嶋家4姉妹を
4回シリーズで紹介します。
女性の地位向上に尽力
意志通りに舵取りした人生
矢嶋楫子は、1833(天保4)年、矢嶋家の六女として生まれ、「かつ」と名付けられました。25歳の時に横井小楠の弟子と結婚するも、10年後、酒乱の夫の暴力に耐えかねて離婚。当時、女性から離婚することは許されない時代でした。
1872(明治5)年、兄の看病のために39歳で上京。その船中で「私も船の舵(楫)のように自分の意志で生きていく」と「楫子」に改名することを決めました。上京後は教員免許を取得し小学校で働き始めます。楫子は厳しくも子どもを大切にする教師として評判がよく、欠席した教え子の家にも心配して通うほどでした。訪問先では酒に溺れた父親が娘を働かせる現場に遭遇し、酒の害がもたらす悪影響に心を痛めていました。
そのような中、日本の女子教育に心血を注ぐ米国婦人宣教師ミセス・ツル―と運命的に出会い、共に女子教育の新たな道を模索。57歳の時には女子学院(キリスト教系の女学院、東京都)の初代院長に就任しました。
1886(明治19)年には、婦人参政権・廃娼・禁酒運動などに取り組む「東京婦人矯風会(現日本キリスト教婦人矯風会)」を発足。3年後に「一夫一婦制」の建白書を国に提出する際は、白装束と短刀を身に着けて出向いたといいます。決死の願いは国に届き、1898(明治31)年に一夫一婦制度が確立しました。70歳を過ぎた後も、矯風会の活動で海外に4度渡航。88歳の時にはワシントン平和会議に出席し、日本の女性1万人が平和を祈り署名した嘆願書を米大統領に手渡しました。楫子は92歳で亡くなるまで女性の地位向上のために尽力し、勲五等瑞宝章も授与されました。
企画・制作/熊本日日新聞社業務局 監修/益城町教育委員会