徳富久子は、1829(文政12)年、矢嶋家の四女として生まれました。18歳の時、横井小楠の弟子であり肥後藩政改革の中心人物であった徳富
一敬 と結婚。嫁ぎ先での過労が原因で、目の疾患に悩まされていた久子は、跡継ぎである男子を産めなかったことから離縁を迫られるなど、苦しい結婚生活を送っていました。しかし、結婚14年目で待望の男児を出産。
猪一郎と名付けたこの男児が、後に近代日本を代表するジャーナリストとして第一線で活躍した徳富蘇峰でした。その5年後には、後に文豪・徳冨蘆花の名で知られる健次郎を出産しました。
久子は子どもたちのしつけと教育を徹底。猪一郎は「私が一人前になり、強い信念が持てたのも、母の厳しさのおかげであった」という言葉を残しており、久子の母親としての存在感の大きさがうかがえます。また、娘・初子を熊本洋学校で日本初の男女共学として学ばせるなど、女子教育にも力を注ぎました。久子は「東京で働く」という猪一郎と上京することを決め、旅立つまでに熊本で女子教育の重要性を訴え、学校設立案の趣意書を作成。そのおよそ1年後に、熊本女学校(大江高などを経て熊本フェイス学院高=2011年閉校)が創立されています。
東京では妹・矢嶋
楫子の
矯風会(※)を積極的に支援し、廃娼・禁酒運動を展開しました。久子はどんな状況でも前進し、人のために奉仕を続け、1919(大正8)年、91歳で生涯の幕を閉じました。
※禁酒運動を基にアメリカで設立されたキリスト教の婦人団体。それを受け、矢嶋楫子らが日本で組織し、世界の平和、性の尊厳と人権の保護、禁煙・禁酒運動を行った。日本で現存する最古の女性団体。
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