熊本の女子教育の発展に尽力した竹崎順子は、1825(文政8)年、上益城郡益城町の矢嶋家の三女として生まれました。四女の久子は徳富
蘇峰・
蘆花兄弟の母、五女のつせ子は横井小楠の妻、そして六女の
楫子は女性の地位向上の先駆者として知られる活動家。この4姉妹が後に「熊本の猛婦」とも言われる四賢婦人です。彼女らは「してみせて言って聞かせてさせてみて誉めてやらねば人は動かぬ」という教育方針を持つ母・鶴子に幼少時代から論語や家庭を守る術を学びました。
順子は16歳で横井小楠の弟子である竹崎律次郎と結婚しますが、夫が始めた酒造業が破産し、夫と共に阿蘇の布田で農業の傍ら塾を開きます。1860(万延元)年には横島新地開拓の監督のため玉名郡横島村に移住。夫が干拓事業で名を上げるまで順子は懸命に働いて支えました。
横島でも農耕をしながら地域の子どもの教育に取り組みます。夫婦で日新堂を1871(明治4)年に開塾し、多い時は普通科300人、幼稚舎70人ほどが入塾し、その中には女学生も15人ほどいました。閉塾するまで順子も幼い生徒を指導しました。
夫の死後、キリスト教に入信。女子教育の必要性を提唱し、1889(明治22)年、順子が65歳の時に熊本女学校(大江高などを経て熊本フェイス学院高=2011年閉校)の寄宿舎で生徒の生活指導や監督をする初代舎監になります。「1人の脱落者も出さない」という信念を持ちながら、愛と誠の精神で生徒の人格と個性を尊重する教育を行いました。
1897(明治30)年、順子は73歳で校長に就任。81年の生涯を閉じるまで女子教育に献身しました。長年大切にしていた自戒の言葉は「愛、慎み、忍耐」。まさに順子の人生を表現する言葉です。
監修/益城町教育委員会